漢字教育士ひろりんの書斎漢字の書架
2016.7.    掲載
同月    掲載中止
2016.10 改訂版掲載
2017.5  注1に追記

 仮借とは何か

 六書の一つである「仮借」(かしゃ)というものについて、筆者は十分に理解しているつもりでいた。ところがこの用語の原典ともいうべき「説文解字」(西暦100年成立)の「(じょ)」(以下、慣例に従って「許叙」という)の記述をあらためて読み、著者の許慎の考える仮借は筆者の理解とやや異なるものであることに気づいた。

 現代の辞書の類で「仮借」を調べれば、たとえば次のような説明が見られる。
仮借は、代名詞や助動詞、方角など実体のない抽象的なものを音を借りて表したものである。たとえば「我」は、原義は神への犠牲を殺すための鋸であったが、単独でその意味として使われることがなく、音だけを借りた一人称代名詞の専用字である。  「白川静を読むときの辞典」
 他の辞書でも説明はほぼ同様で、例として挙げられている字は次のようなものである。( )内の前部がその字本来の意味、後部が仮借によって与えられた意味である。
其(み〈箕〉⇒それ)、雅(カラス⇒みやび)、豆(高坏(たかつき)〈脚の高い食器〉⇒まめ)、來(むぎ⇒くる)、求(かわごろも⇒もとめる)、耳(みみ⇒のみ)、原(みなもと⇒はら)
 筆者なりにこれらの説明をまとめると、仮借とは次のとおりである。
言葉は存在するがそれを書き表す文字が作られなかったため、同音(または近似音)の他字を借りてその言葉を表した用字法。借りられた側の字は、元の意味を失って仮借字専用となる場合(我、來など)と、元の意味も残して複数の意味を持つようになる場合(原、耳など)がある。

 筆者はこうした解釈に疑問を持たず、このウェブサイト掲載の論考等でも「仮借」という語を多用していた。ところがある日、「許叙」にある「六書」の説明を読み直していて、大きな違和感を感じた。
 許叙の六書の部分は、指事・象形・形声・会意・転注・仮借という6つの「造字の本」(「漢書」藝文志)について、ごく簡潔に説明したものである。1)「六書」という分類は、許慎の独創ではなく、彼以前から存在したが、それについて短いながらも説明を加えたのは許叙が最初とされている。そのうち仮借についてはこうある
   假借者、本無其字、依聲託事。令長是也。
     仮借は、もとその字なく、声に依りて事を託す。令・長これなり。
 前の11文字はよく分かる。問題は、「令」「長」が代表例として挙げられていることである。この2文字は、先にあげた現在の解釈による仮借の例と同様に考えられるのだろうか。
 日本語の解説を求めて、福本雅一訳「説文解字敍」をひもといた。「仮借」の注にこうある。
漢代では、一万戸以上の県の長官を令、それ以下のを長と称したが、令の本義は号令を発すること、長の本義は久遠ということである。県令・県長という字がもともとなかったので、令と長の本義を引き伸ばし、発展させてこういったのであると、段玉裁は説く。
 この文章は段玉裁「説文解字注」の当該部分の和訳(一部)である。この説明により、筆者の違和感はかえって増幅した。
 「県令・県長という字」とあるが、これは字ではなくて語である。政治改革により首長を表す新しい用語が必要となり、令・長という字を使って新たに熟語を作った、というにすぎない。仮に、「県の支配者」という概念を表す語が無かったために既存の字を借りて「県令」・「県長」の語を作り出したと言いたかったとしても、「依聲託事」というのだから、大県の支配者として令の音を持つ言葉、小県の支配者として長の音を持つ言葉が以前からあったのでなければならないが、そんなことがありうるとは思えない。この「県の支配者」という概念そのものが新たに生まれたものであり、「われ」や「それ」が言葉として古くから存在したものであるのとは決定的に異なるのである。

 不思議なのは、先に引用した辞書類をはじめ、筆者がこれまで読んだものに、仮借の例として許叙に従って令・長を挙げているものを見た覚えがないことである。また、「仮借についての許叙の例示は適切ではないので、別の例を挙げる」という記述も読んだことがない。上記に引用した「白川静を読むときの辞典」(「六書」の項)は、「許慎の『説文解字』の『自叙』に、はじめてそれぞれの構造法が説かれた。以下、それによって解説する。」としながら、仮借については令・長ではなく我を例とする解説文を記載しており、これでは説明が不十分というより、誤っていると言わざるを得ない。多くの書物が、許慎や説文解字の名を出したうえで、それと異なる字を例として示しており、その相違について何も語っていない。2)

 より詳細な解説を求めて、阿辻哲次「漢字学~『説文解字』の世界」と白川静「説文新義」を読んでみた。また阿辻氏の論文「六書についての一考察」も参照した。さすがにここには「令・長」問題についての考察が記されている。両者の論旨を簡単に記す。
 阿辻氏は「六書の仮借の例としては令・長は正しくないという議論が古くからある。3)しかし(中略)「許叙」から離れて六書を考えることは許されない」(「漢字学」134ページ)、「仮借は六書の一を占めるものであるから、その研究はまず『説文』叙の定義と挙例から進められなければならない。『説文』の枠から外れるならば、それは六書の体系から外れるのである。」(「六書についての一考察」)と述べている。許慎が仮借を含む六書の定義を作ったのだから、許慎の考えを追究してそれを尊重しなければならないとする立場である。
 一方、白川氏は、「許叙に仮借の例として令長をあげているのは、必ずしも適当でない。(中略)引伸は語義の演化、多様化にすぎず、訓詁の領域である。(中略)仮借は本来依声託事、字の音のみを用いて他義を示す場合に限定すべきである。」(「説文新義」巻15、241ページ:原文は旧字体)と述べ、「文字構造上の原則」としての六書がどうあるべきかについて論述している。

 このとおり両者の論述はその方向性が全く異なるのでかみ合わないものになっている。両者とも学者として信念を持って書いているのだから、どちらが正しいとは言えないかもしれないが、あえて私見を述べると、前述のとおり、許慎の挙げた令・長の例と、自らの仮借の定義との間に矛盾があると言わざるを得ない。許慎の思いが段玉裁の注のとおりだとしても、令・長の例は「依声託事」という条件に適合しているとは言えない。この点については、阿辻氏の著書にも明確な説明は述べられていない。
 六書については、先にも述べたが許慎の独創ではなく、「漢書」藝文志と「周禮」鄭注にも項目のみ記載されている(名称と順序は許叙と一部相違する)。後漢時代、造字の本としての六書は学者の間では知られており、許慎はその用語に自分なりの説明を加えたということではないか。もしそうなら、その説明に異議を唱えることは「許されない」こととは言えないであろう。

 仮借について、許慎の「本無其字、依聲託事」という定義は適切なものと言えるだろう。この定義を生かし、六書の一つとして意味のあるものとするためには、例示は定義に適合したものでなくてはならない。現在の辞書類はそう考えて、令・長よりもふさわしいと考える字を例として挙げているのだろう。ただし、その例示まで許慎のものを引用しているかのごとく記載するのは、「許されない」ことであると考える。



注1)六書のうち、象形・指事・会意・形声は造字の原則、転注と仮借は用字の原則と分けて考える説がある(段玉裁、阿辻哲次ほか)が、六書すべてを「文字構造上の原則」と考える説もある(白川静)。
【2017.5.22 追記】
 白川静氏の「説文新義」には「もし体用(引用者注:造字と用字)を以て分かつべきものならば、班志(同:漢書藝文志)に『造字之本也』という語は解しがたい」(巻十五第一章)とあり、六書は全て文字構造上の原則であると各所で述べている。
 しかし最近、同氏の最晩年の著作「漢字の系統」(「桂東雑記Ⅴ」所収、初版第1刷 平凡社 2007年)に、次の記述があることを知った。
 「この六書のうち、指事・象形・形声・会意は造字の法であり、仮借はその用義法である。」(158ページ)
 こちらも断定的に述べられており、白川氏の仮借に対する考えが変化したものとも考えられる。
 ところが、同じ著作には、「転注は六書の一としてあげられているもので、本来文字の構造法の問題であるべきであるが、清朝の小学家はみなその用義法の上からこれを論ずる者が多く、」(164ページ)ともあり、ここでは六書全てが構造法に関するものととらえていると受け取れる。
 白川氏は晩年、永年定説を得なかった転注に関して新たな視点から論考をまとめていたとのことであるが、未刊のまま終わってしまったのは残念である。     戻る

注2)「大漢和辞典」も同様で、仮借の例字として「焉」(鳥の名⇒助字)を挙げている(「六書」の項)。     戻る

注3)阿辻氏は「六書についての一考察」のなかで、朱駿聲(清代の訓詁家)の「説文通訓定声」の説及び後述の白川静氏の説を紹介している。     戻る

参考・引用資料

白川静を読むときの辞典 立命館大学白川静記念東洋文字文化研究所 編、平凡社 2013年

説文解字敍 福本雅一訳:中國書論大系第1巻、第2刷 二玄社 1978年

漢字学-『説文解字』の世界 阿辻哲次著、初版第2刷 東海大学出版会 1986年

六書についての一考察 阿辻哲次著:日本中国語学会「中国語学」1981年(ウェブサイトより)

説文新義 巻十五 第4刷 白川静著、白鶴美術館 1993年:白川静著作集別巻 説文新義8 初版 平凡社 2003年